本日は
ソクラテスが毒杯をあおって刑死した日だそうです。
ソクラテスの妻が悪妻と言われていることから
「悪妻の日」とも
哲学は命懸けであり
崖の上のポニョ @如人千尺懸崖上樹
苦難が哲学者をつくるということですね。
悪妻が哲学者をつくる
トラウマケアは
哲学的忍耐力を要求する。
フッサールの亡くなった日でもありますが
黎明期の本邦臨床心理学が
臨床心理学にも
さまざまな立場があるが
あらゆる学派に共通する基本原理の1つとして
重視したのは
フッサールの現象学的方法でした。
「事象そのものへ」
現象そのものを把握して記述する方法を求める。
— 心理療法の傾聴の方法論 として採用
当時は
心理主義批判の時代で
心理学そのものがいけないというのではなくて
— まだ黎明期でどういう学問かまだあいまい
ヴントらの心理学についてのもの
ユング
— 心理主義とのそしりを免れない… と予防線
西田幾多郎
— 心理主義的に書いてしまっていた…とプチ反省
— 心理学者からの批判を真摯に受けて自覚についてさらに深めた。
—— 批判が正鵠を得ていたという意味でもないが自己否定即肯定の人なので
フッサールもその洗礼を受けて
批判され
出版した著書の第二巻が断念され未完となった後
心理学主義に徹底した批判を加えるようになると
心理学主義とは
心理学という「一つの理論」を前提とする立場
あらゆる対象の基礎を
心理的な過程に基づけようとする試みでは
現象そのものを直接把握することができないとフッサールは考えた。
対象に関するすべての判断や理論を禁止する(エポケー)ことで
意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。
好評を博し
若手心理学者たちがこれを読んで
フッサールのもとへ走り
「ミュンヘン現象学派」が形成されました。
決裂することになるが
— フロイトとユングのように
かのハイデッガーが助手となるほどの勢力
次第に洗練されてゆき
純粋意識まで論じられるようになったのですが
西田幾多郎は
フッサールの現象学ではまだ不徹底と断じていました。
フッサールの現象学の世界も一種の直観的世界ではあるが、此世界が果たして氏
の云ふ如く純粋記述の世界であろうか。〔……〕余は氏の如き方法によつて、直接
流転の世界に於ける関係を表すは不可能であると思う。フッサールは分析の精細な
るに似ず、深さにおいて欠けていると思ふ。フッサールは分析の精細なるに似ず、
深さに於て欠けて居ると思ふ。余は現今哲学の重要なる問題は此処にあると思う
(旧1.366)。
フッサールはそれをどう考えたのかということですが
日本からの留学生に
ドイツに留学していた田辺元
その思想を説明させながら
『自覚に於ける直観と反省』についてですが根本は1つでしょう。

現象そのものに向き合わず
理論に遁走してしまう傾向があり
ちっとも現象学的でなかったのでは…と想像してしまいます。
さて
Wikipediaには
心理主義は今日ではあまり支持されてはいないと
書かれていますが
我が国の心理学や精神医学は
心理主義の権化です。


発達障害が流行しているという
— 心理療法じゃなくて薬物療法が有効
大前提に立って
クライエントを見てはいけない…のに
擁護派の
「新しい論理学はそれなしにはやっていけない」という
立場に属しているのでしょうか。



妖怪学には、多くの哲学が込み込みなんですね。
最近、漸く、哲学とは何なのか?というのが「感じ」られる様になったかな…感じるだけで、解った訳ではありません。
そうなんです。
心理療法が何(難?)たるかを理解する上では、そういうこと(心理学と哲学の関係というかあいだ@木村敏)が感じられれば充分で、いわゆる哲学そのもの(哲学者の名前とか理論の内容とか)を理解する必要はないようです。
上手く表現出来ないけど、こころの不具合が治る時に、同時にその水面下で“philosophise/哲学へのプロセスを体験する”が行われているみたいですね。
昨日完了したリサーチ論文も、その水面下の当事者の内的世界を描写した作品、その作品の解析、including 文化でした。なるべく当事者感覚を中立的に言語化しようとこころみたのですが、まぁーだ当事者感丸出しの箇所が幾つかあって、スーパーバイザーがため息😮💨ついてました。そのため息😮💨が、トラウマの再演を引き起こすという事を治療者側にいるスーパーバイザーはご存知無い様です。そういう事を言語化して行こうと意気揚々な当事者ドラゴン🐲です 。笑笑
昨今のスーパーバイザーも、フッサールの範疇なのかもですね。
①当事者は置き去りにされ、②二次被害にも遭いがちなギョーカイ@妖怪学 🤭
です…
「現象そのものに向かい合わず、理論に遁走」
リカバリーのツメ、或いは、断薬の最期の最期の葛藤処理で、起こりがちな現象です。現象に付き合うよりも、理論の上に居座った方が自分の「身の安全性」の妄想に浸り易いですからね。
西田先生が、「フッサールの分析の深さ」について批判している部分がありますが、ドラゴン🐲も全く同感でございます。フッサールが西洋人の普遍性の象徴ではないですが、ドイツ語圏の思考パターンには常に理論が先行研究に存在している感じで、妄想力が乏しいと常日頃感じるドラゴン🐲です。彼らの思考展開が、「はい」か「いいえ」を決めてから始める習性があるからかなぁ?
それともう一つ、ドラゴン🐲周辺の西洋人たちがよく言ってるのですが、「日本のホラーストーリー(妖怪学の発展形)の方が、西洋ホラーよりも無茶苦茶怖い😱」って…秋に映画関係の方々と関わる事が多かったのですが、クラスでのディスカッションでもこれは良く出て来ました。
ホラーの怖さの比較は興味深いです( ..)φメモメモ
表現の違いより感じ方の違いの方が重要でしたね。
そして、感じ方はどうも世の東西を問わないようで。
改めて「はい」か「いいえ」を決めてから始めるのは窮屈なことだと思います。
妄想(自己治癒力)を追い出すシステムなのでしょうかね。
ギョーカイ人たちは、日本人なのに、フッサールの背中(事象からの遁走・雄弁不実行)をみて育っちゃったブロイラー(スキゾフレニアの精神科医じゃなくて🐓)🤔
合理的に考える事が「良い子のお手本」であるかの様に訓練されてしまった人たちには、トラウマで踊らされる苦痛を持つ人を理解する事はかなり難しい😓事の様です。しかも、そういう人たちの「トラウマ定義」はただの「イベント」である事が多いみたい。即ち、西田先生的に考えれば、「浅はかな思考」、ビオンで言えばadhesive modeな学びしか出来ないヒトたちなのだと。
マニュアル通りの人間性を考慮しない「良い子」で居続けるために合理的思考に固執する選択をするみたい。だから、故意的に事象を観る事を避けているのかもしれませんね。似たような集合的無意識(1つの言語や文化圏)の上に居続けると、それを貫き通す事が可能なのかもしれないです。
西洋の言語問題は根深いのですね。
ちょうど凄い事例をみつけました。
ウィトゲンシュタインって、良くも悪くも、こんな人だったのか…と驚いています。
AIになるためのスパルタ教育の被害者(>_<)