「デカルトは『我思う、ゆえに我あり』と言って
人間を考える主体であると定義しました。
しかし
日本の今西錦司や西田幾多郎は
それが間違いであると言っています。
人間は
頭だけでなく
身体性を持って考える存在
箱庭はそれを哲学する場所なのかも
臨床心理学の源流としての哲学ですが
「西田哲学」が
キリスト教ベースではない
(キリスト教を否定するのでもない総括的立場)
日本人の哲学
黎明期を脱し
臨床心理学の黎明期も…というか
黎明期こそに生命が感じられ
面白かった。
確かなものになりつつある好機に
当人の西田幾多郎は
生活面では不幸と苦悩に苛まれていたそうです。
陰陽☯
その最中に
「哲学の動機は
「驚き」ではなくして
深い人生の悲哀でなければならない」(S5・9)と書き
徹底的に自己否定され足場を崩される。
事実
翌年ある種の再生を遂げていました。
きっと無意識的な行動であり
客観的現実としての運命に身を任せただけのこと
異分野の若き研究者から教わったこの事例は
不思議に私の境涯と符合し
苦境ととらえてしまうところが
私の愚かさであり間違いの根本なのでしょう(-_-;)
普遍性を驚愕と共に感じました。
ありていにいうと…
PTSD案件は金太郎アメですね。
事例と統計☯